ヴァン・ショー

Le Baiser de Lis

 そこは渋谷センター街から少し外れたところにある。
 看板はチョークで落書きされたようにLe Baiser de Lis と書いてある。
 重厚なドアを開けると、ドアベルが軽快に鳴り、ひそひそと喋る女の子たちの声とともにジャズが聞こえてくる。
 オレンジ色の照明の下、カウンターの後ろにはたくさんのお酒が目に入る。
 マスターは無表情にグラスを磨きながら、バーテンダーの千夏は笑顔でこう言う。
 いらっしゃいませ、百合のくちづけ(ル・ベゼ・ド・リス)へ。

 木枯らしが荒れ狂う秋の日だった。私はリクルートスーツの上に薄いトレンチ・コートを着ていたが、それでも寒さを感じ、つくづく就職活動とは不合理に満ちたものだと実感せざるをえなかった。トレンチ・コートの前を合わせるが防寒の意味をなさない。私はないよりましと渋谷の雑踏を歩いていた。温かいものが飲みたい。黒い鞄のなかにはミルクティが入っているはずだが、ペットボトル入りのそれはもう冷めてしまっているだろう。どこかカフェのようなところに入るべきか、悩んでいるところだった。そのときだった。黒い立て看板が目に入った。
「ヴァン・ショー始めました」
 白いペンで素っ気なく書かれていた文字を見ると、喉がきゅっと締まった。温かいワイン、飲みたいなあと思い、私はその立て看板を見て三階にあるバー・Le Baiser de Lisを目指した。

 六階建てのビルのエレベータを上り三階で降りると、目の前には木の重厚なドアがあった。それを押すとドアベルが鳴る。私はリクルートスーツで来るところではなかったかな、と少し不安に思いながら、店内を見まわした。照明は女性の肌を引き立てるオレンジ色でカウンター席がざっと十席、テーブル席が四席のこじんまりとしたバーだった。
「いらっしゃいませ、よろしかったらカウンターへどうぞ」
 バーテンダーのひとりが厨房から顔を出した。まだ開店したばかりなのだろう。客は私ひとりだった。バーテンダーは青いカッターシャツに茶色のベストを着ている。
「お疲れさまです、おしぼりをどうぞ」
「ありがとうございます」
 私はそう言って手を差し出した。広げられる温かいおしぼりは、かじかんだ手に優しい。
「ヴァン・ショー・ブランってできますか?」
「はい、少々お待ち下さいね」
 ショートカットのバーテンダーは、マスター、ヴァン・ショー・ブランお願いします、と厨房に向かって言った。
「就職活動ですか? お疲れさまです。私この店のバーテンダーをしております千夏です」
 千夏は名刺を笑顔で差し出し、私はLe Baiser de Lisと店名が書いてある名刺を受け取った。
「素敵なお名前ですね」
 千の夏。千夏はまるで真夏に咲いた向日葵のように笑顔を振りまいている。源氏名であっても彼女の本質をついているのではないか、と私は思った。
「ありがとうございます。お客様はル・ベゼ・ド・リスをどこで知ったのですか?」
「美奈でいいですよ」
「では、美奈さん」
「ちょうど立て看板を見て……ヴァン・ショー始めましたって書いてあったので、一杯だけでも飲みたいなって思って」
 千夏は頷きながら聞いていた。そして言いづらそうに口を開いた。
「ここは女性だけが入ることができるお店です。……美奈さん、大丈夫でしょうか?」
 そう言えば、と私は思い出していた。立て看板の下に何か書いてあったような気がする。ウーマン・オンリー・バーだったような。
「大丈夫です。男ばかりのバーだったら逃げますけど」
 私がそう言うと千夏が吹き出した。確かにそれは嫌ですね、と。
「千夏、ヴァン・ショー・ブランできたわよ」
 厨房から耐熱グラスを持ちながらマスターらしきひとが現れた。背筋の伸びた、背の高い女性。きっと長い髪であろう髪はひとつのシニョンで纏められている。千夏と一緒の青いシャツに茶色いベストを着ていた。
 マスターは私に気が付くと、いらっしゃいませ、と言い、目礼をしてカウンターに立って氷を砕き始めた。
「不愛想でごめんなさいね。うちのマスターはいつもこんな感じだから気にしないで」
 ヴァン・ショー・ブランを私の前に差し出しながら千夏は申し訳なさそうに言った。私はあまり気にしていないことを告げるとヴァン・ショー・ブランに口をつけた。ワインの香りが舌を撫ぜて、甘さとスパイスが後味として残った。
「美味しい」
 思わず感嘆の声が上がった。
「でしょう。マスターの腕はこう見えて素晴らしいんですよ」
「こう見えてとは失礼ね」
 マスターは肘で千夏を小突いた。千夏は大げさに痛い、痛い、と言う。マスターと千夏はとっても仲が良さそうに思えた。
「マスターはお名前、なんて言うんですか?」
 私が尋ねると、マスターは人差し指をくちびるの上に乗せた。
「マスターは恋人以外に気軽に名前を呼ばれたくないっていうひとだから、呼び名はマスターなんですよ」
 千夏は意外と乙女ちっくなひとでしょ? と付け加えた。
「でも素敵だな。マスターが名前を呼ぶことを許すひとってどんなひとなんでしょう?」
「内緒です」
 マスターはまた無心に氷を砕き始めた。千夏は肩を竦めて、やれやれといった感じだった。
 私はヴァン・ショー・ブランをゆっくりと飲みながら、すっかりベゼ・ド・リスのゆったりと流れる時間に落ち着いていた。温かいヴァン・ショーに、軽口を叩きながら、流れる時間はあっという間だった。
「いけない、こんなにゆっくりしている時間はなかったんだ」
 たった一杯のつもりが三杯目のヴァン・ショー・ブランを飲んでいた。帰ってまたエントリーシートを書かなければいけないのを思い出した。
「お帰りですか?」
「ええ」
 私は少し冷めたヴァン・ショー・ブランを一気に飲み干した。
 マスターがカウンターから出て、コートを私に着せてくれた。
「また、ゆっくり来てくださいね」
 千夏がカウンターから手を振っている。
「はい」
 マスターがドアを開けてくれたので、私はそこから滑り込むように店の外に出た。エレベータのボタンを押して、下に行くのを一緒にマスターは待っていてくれた。
「寒いですね。どうぞお気をつけて帰ってください」
「ありがとうございます。就職先が決まったら、また飲みに来ますね」
 チンとエレベータが三階に着いたことを告げると、マスターはありがとうございました、と頭を下げて、私を見送ってくれた。
 外は相変わらず木枯らしが吹いていたが、もう私は寒くはなかった。ヴァン・ショーのおかげか、久しぶりに時間を忘れて飲めたおかげか、私の身体と心は軽かった。私は軽い足取りで渋谷の雑踏に紛れた。


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