CLUB NAKED

#9

 エイコは夜の病院にひとりでいると、心許なかった。他人行儀なソファに身体を預けると腕に血痕が付いているのにエイコは気がついた。お手洗いで落とそうと思うが、肝心のトイレがどこか分からない。泣き出しそうになるのを必死で抑えて、エイコはハンケチでそれを拭う。カズミが血を吐いた。救急車に初めて乗って、エイコはカズミの手を握り続けていた。救急隊員たちが何やら専門用語を叫びながらエイコに質問を浴びせた。カズミの血液型は? 通院はしていたか? 普段、服用している薬は? 吐血はどれくらいの量だったか? かろうじて最後の質問には答えられたが、エイコはカズミのことを何も分かっていないのだなと思い知らされた。カズミは一度、意識を取り戻し、こう言った。
「だいじょうぶです」
 そうしてまた意識を失った。そのときのカズミの虚ろな目を思い出すだけで、リノリウムの床が歪んで見えてくる。血を吐いていて大丈夫なわけないじゃない、とエイコは涙を浮かべるのだった。
 エイコが祈るような気持ちで待っていると、アマネが待合室に顔を見せた。
「エイコ、大丈夫?」
「私は大丈夫。ヒカリは?」
「病院に来て、そのままナース・ステイションに向かったわ。あいつ、あれでICUの看護師だから」
「そっか」
 アマネはエイコの震える手を握った。
「心細い思い、させたわね」
 アマネはエイコの隣に座るとエイコの頭を肩に寄せた。もう大丈夫よ、とアマネは囁きながらエイコを慰めた。弱っていたエイコもアマネのされるがままになっていたが、アマネの体温が何よりも確かなものだと感じると、安心してまた涙が出てきた。
「そうだ。報告」
「うん」
「私、ヒカリと付き合うことになったから、もう手を出しちゃだめよ」
「え……?」
 エイコは驚いてアマネを見つめたが、微笑するだけでそれ以上、何も言わなかった。
「おふたりさん、帰るよ」
 ヒカリが突然ふたりの背後から現れた。
「ヒカリ、お医者様はなんて?」
「内視鏡で見た限り、胃潰瘍だって。カズミはいま寝てるし、実家のほうにも連絡しておいた。入院に必要なものはさっきアマネと一緒に買って来たから、今日は帰るよ」
 ヒカリはそう言うと、ひとりですたすたと病院を出た。
「良かった。大したことなくて。ね、エイコ」
「うん。でも心配だな」
 エイコはこのまま立ち去っていいものかと思案した。
「また明日来ればいいじゃない。ヒカリもああ言ってるんだし」
 アマネはエイコの前に立って、エイコに立つように促した。
「うん」
 後ろ髪が引かれながらもエイコは待合室を後にした。
「ねえ、さっきヒカリと付き合うって言ってたけど、マジな話? ヒカリはまったく変わったようには見えないんだけど」
 付け加えればアマネもエイコには付き合うことによって、変わったようには見えなかった。エイコが不思議そうな顔をするとアマネは吹き出した。
「あれはね、照れてるの」
 病院を出るともう朝で日が眩しかったが、アマネの笑顔はもっと眩しく、エイコは目を細めた。

 カズミは目を覚ますと病院のベッドに寝ていることに気がついた。傍らではエイコが持ってきてくれた花が置いてあった。会社に行かなければいけない、と思ってカズミはその必要はないことを寝惚けた頭で思い出した。カズミはもう一度、ゆったりとベッドに身体を預けた。手術が終わって三日目。まだ胃に違和感があるがそれより眠気のほうが酷かった。カズミは自分が無意識のうちに身体を酷使していたと改めて感じざるをえなかった。会社が忙しかったのとエイコのことを考えていたせいか、かなりの負荷がかかっていたのだ。カズミは退院したら一番になにをすべきか考えていた。会社のことやネイキッドのことよりもエイコのことを考えてしまう自分にカズミは苦笑いをした。ヒカリは今はゆっくり休めと言ったけれども、どうしてもエイコと自分のことを考えてしまう。エイコは今ごろなにをしているだろうか、私のことを考えているだろうか? 私はエイコのことを考えているよ、とカズミは誰に喋ることもなくこころのなかで呟いた。浅い微睡みに誘われるようにカズミは再び目を閉じて、眠りに落ちた。

 退院を明日に控え、カズミは長い眠りから覚めた気分だった。二週間ただ自分の生命力を信じ、それに身体を委ねていた。しかし今は自分の意志でカズミは選び取ろうとしている。 「明日、退院だね」
「うん」
 今日のカズミのお見舞いはヒカリだった。エイコ、アマネ、ヒカリが予定を組んで日替わりで病院に来てくれることはカズミには心苦しかったが、嬉しく励ましになった。そのなかでもヒカリは看なれているせいか、一番テキパキと身の回りの世話をしてくれた。感謝し足りないが、別のところに問題があった。
「どこか行きたいところとか食べたいもの、ある?」
 明日も非番だし、とヒカリは付け加えた。カズミは穏やかそうなヒカリを見つめると、その眼に問いただすことが果たして正しいことなのかと揺らいでしまっていた。
「海に行きたいな」
「いいね。九月だから人も少ないし」
「ヒカリはエイコとのことも遊びだったの?」
 カズミは自分でもその言葉の直截的な響きに驚いた。
「ごめん」
 顔を下に向けるしかなかったカズミだが、ヒカリは顔色をほとんど変えることなく窓の外をみつめていた。
「なにを言っても言い訳になるな」
 カズミはヒカリの後ろ姿を見つめた。ヒカリの身体つきがこれほど小さく感じたのはカズミにとっては初めてだった。
「アマネと付き合うことにした」
 ヒカリは苦笑に混じった声でそう言った。
「そう。良かった」
 カズミはベッドから出てヒカリの隣に立った。
「良い……ことなのかな。こんなに怖い想いをするのは初めてだ」
 今度はヒカリが視線を落とす番だった。弱音を吐くヒカリをカズミは初めて見た。こんな想いはもうこりごりだと思ったのに、とヒカリはまだ揺れているのを実感した。カズミはそんなヒカリの姿に心の底から同情した。ふたりの友情は揺るぎないものだとカズミは伝えたいと思う。
「うん。良いことだよ」
 カズミはヒカリの手を握った。ヒカリはびっくりしたようだったが、カズミは思ったよりも冷たい手を力強く握り返され、ひとつの確証を得た。ヒカリはアマネを大切にするだろう。壊れもののように。アマネの気持ちが分かったとカズミは思った。臆病者のヒカリをどうやったら愛さずにいられようか。ふたりはそれから黙ったまま、窓から暮れゆく日を見つめていた。

「どこか調子悪いところない?」
「うん。大丈夫だよ」
「もう、カズミの大丈夫は本当に信用ならないんだから」
 退院の当日、エイコがカズミの病室を見舞ったが、カズミはあらかた荷物をまとめ、退院手続きなどを終わらせていた。
「ごめん。本当に心配かけたね」
 カズミは申し訳なさそうに、エイコに言った。
「別にいいよ。少しは心配くらいさせて」
 それくらいしかできないから、とエイコは言った。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
 駐車場ではアマネとヒカリが待っている。カズミは二週間お世話になった病室に頭を下げると、病院を後にして、四人で海に向かうことにした。

「アマネに借りたマンガ。入院中に全巻、読んじゃった」
「面白かったでしょう? あのマンガ家さんはオススメなんだ」
「えー、私にも貸して」
「いいよ」
 四人ははしゃいでいた。そういえば四人で昼間に出かけることは初めてだな、とエイコは思った。運転はヒカリがして、助手席にはアマネが座り、後部座席にはエイコとカズミが座っていた。ヒカリは珍しくサングラスをして、車でかかっている音楽をハミングしている。
「だけど思ったより早く退院できて、本当に良かった。エイコから連絡をもらったとき全身から血の気が引いたんだから」
 そうアマネが言うと、カズミは申し訳なさそうな顔をした。
「いいじゃない。元気になったんだから」
 ヒカリがそう言うと、エイコもうなずいた。
「だけど、ネイキッド最後の夜に朝までいられなかったことが、残念かな」
 カズミが言うと、ヒカリはアマネに目で合図した。
「実はね、エイコとカズミに言うことがあるの」
 アマネは後部座席を振り返る。
「なに? 改まっちゃって」
 エイコがお菓子を片手にアマネを見つめた。
「ネイキッドのリニューアル・オープンが決まったらしいの」
「やった!」
「ホント?」
 エイコとカズミのふたりは驚き、思わぬ吉報に喜んだ。
「オーナーさんがね、ネイキッドを建て直して、もう一度クラブを始めるってヒカリが言ってた」
「へー、ヒカリってオーナーさんと仲良いの?」
 カズミがヒカリに尋ねる。
「秘密」
 ヒカリがそう言うと、黙ってしまってまた運転に集中した。
「だけど、建物は壊されるから半年はかかるって。いま九月でしょ、来春かな、オープンは」
「その頃、エイコは大学最終学年だね」
 カズミがそう言うと、エイコは眉根を寄せた。
「うう、まだまだ勉強が足りてなさそうで、怖いわ」
 カズミはエイコの頭をくしゃっと撫ぜた。カズミの戸惑いのない手にエイコは今までにないときめきを抱いた。
「そろそろ海が見える」
 ヒカリがそう言うと、三人は窓の外を見つめる。
「キレイ」
「ね、すごくキラキラ」
「晴れて良かった」
 四人はこうして浜辺に着いた。

 エイコは靴を脱いで、波打ち際まで歩いた。冷たく泡立つ波が足元をくすぐって、引いていく。もう答えを出さなければいけない。緊張で足が震えるエイコは、ただ波が押し寄せ引いていく海を見つめて、自分の些末なことを忘れようとしていた。
「エイコ、大丈夫?」
 アマネが笑いかけるとエイコは笑ってみせた。
「アマネはさ、いつから知ってたの?」
 私とヒカリのこと、とエイコは付け加える。
「確信はなかったよ。でもヒカリはエイコのこと好きだったから」
「え?」
「初めて会ったとき、エイコに話かけろって言ったのはヒカリだったから」
 恋じゃない好意はどこに向かうのだろうか、潮風に吹かれアマネは髪をなびかせた。確かにヒカリとエイコとのことを知ったとき嫉妬でアマネは燃え上がったが、それだけではないと気がついた。簡単に友だちを抱けるヒカリにも嫉妬していたのだ。アマネはそんな自分の欲望に気がつくと、ヒカリやエイコを責める気にはなれなかった。
「ヒカリが好きだったのはエイコの身体でしょう? エイコの気持ちには関わらず」
 ストレートなアマネの物言いにエイコは頬を赤らめた。確かにそうだ、とエイコは思った。エイコはヒカリの身体が好きだった。
「責めているわけじゃないんだ。本当に好きって感情は難しいね」
「うん」
 エイコは浜辺を歩いているカズミとヒカリを見つめた。親密そうなふたりは恋人同士にも見える。
「エイコ、私もカズミが好きだよ」
 だから幸せになって欲しい、とアマネは言った。たったひとり愛するひとを選ぶことは難しいとエイコは思った。でも、たったひとりを選ぶのがカズミなら難しくはないとも思った。エイコは顔をあげて、海を見つめた。

「エイコ見て見て」
 カズミの掌をエイコは覗きこんだ。
「桜貝? ピンクが可愛い」
 掌に収まっていたのは、小さなピンク色をした貝でエイコはそれを手に取って陽に透けさせた。
「私ね、エイコのことが好きだよ。だから付き合って」
「困ったなあ」
 エイコは貝をカズミに返して言った。
「私のセリフ取られちゃったよ」
 笑いながらエイコはカズミを見つめた。淡い笑みもいいけれど、こんな満面のほほ笑みを浮かべたカズミも悪くないとエイコは思った。
 ふたりの足元には海があって、波が四本の足をくすぐる。エイコとカズミは向き合って見つめ合う。そこには駆け引きも打算もない。ただ素直な感情があるだけだった。
「私と付き合って下さい」
 エイコはカズミの質問に同じ質問で返した。そこにはエイコなりのプライドがあった。答えの是非に拘らず、自分から言い出すべきだとエイコは思った。
「もちろん。これからも、よろしく」
 エイコは思い切ってカズミのくちびるを一瞬だけ奪った。触れるだけのキス。
「これだけ?」
「もっと?」
「うん」
 波だけはただ変わらずに、ふたりの足を洗っている。

「いいなあ羨ましいなあ」
「何が?」
 アマネはエイコとカズミのふたりを見て口を尖らしている。
「晩夏の海の浜辺でキスなんて、羨ましい」
「……出歯亀とは趣味が良いとは言えない」
 ヒカリは呆れたようにエイコとカズミから目を逸らしている。
「ヒカリ、ちゅーしよ、ちゅー」
 んーとキ待ちのアマネをヒカリはひっぱたいた。
「そろそろ帰る時間」
「つれなーい。しかしあのふたりどうする?」
 ふたりの空間をぶち壊すのは少し忍びないね、とアマネは言った。
「もう少しふたりきりにさせてあげますか」
 ヒカリは立ちあがって砂を払った。ヒカリは面倒くさそうに右手をアマネの前に差し出した。
「なに?」
「今日、アマネはヒールでしょう。立ちにくいと思って」
「あら、ありがとう」
 アマネはヒカリの右手に自分のそれを絡ませた。立ち上がってもヒカリが右手を離さないのでアマネは不思議に思う。ヒカリは出し抜けにアマネの指にキスをした。
「もうヒカリったら可愛い」
 ヒカリは真っ赤になっていた。顔を逸らして、アマネには見えないと思っているけれど、耳まで真っ赤にしていれば分かってしまう。
「幸せだなあ」
 アマネは声に出して言った。澄み渡った青空の下、四人がそれぞれ幸せを噛みしめていた。この幸せはいつまで続くかわからない。明日終わってしまうかもしれないけれど、だからこそ今という時を大切にしようと四人はそれぞれ思っていた。


   ……End(?).


BGM; Eli Goulart E Banda Do Mato Sunny
True end は2015年の文学フリマで製本予定です。自家通販もする予定なので宜しくお願い致します。


Page Top
inserted by FC2 system