CLUB NAKED

#8

 目覚まし時計が鳴る四十七分前にカズミは起きた。ここのところよく眠れていない。ベッドから出て、やかんを火にかけるとカズミはため息をついた。
「私は誰のものでもないのよ」
 ナナは浮気をしても——もちろん本人は浮気と認識していなかったが——そう言って決して謝ることはなかった。そうしてどれだけ泣かされたことか、カズミは思い出していた。カズミはエイコとヒカリの関係を問いただすつもりも、その資格もないと思っている。ただカズミは関係ないことだと言いきかせても、どこかで苦々しい思いをしていた。エイコの叫びはカズミの耳から離れない。残響のようにこだまして耳元から離れないエイコの声にいくばくかの同情と戸惑いを生み、カズミの胃のあたりに巣食った。こころは身体じゅうにあって、あちこち軋む。インスタントコーヒーの粉末をスプーンで掬い、カズミは沸騰したお湯をマグカップに注いだ。最近、胃の調子が悪いからミルクを入れておこうとカズミは冷蔵庫を開けて、その冷気に安堵する。夏はまだ始まったばかりで、カズミは迷っていた。嫉妬、無関心、愛着、憎悪、苦しみ、歓び。つねに正反対の気持ちがマーブル模様を描きカズミを引き裂いている。そのなかでかろうじてバランスをとっているカズミはカズミ自身からしても危ういものだと思っていた。カズミは自分なりに早く答えを出さなければ、と焦りながらも、それを先延ばしにしていた。
 寝室に戻り、スマートフォンをチェックしているとアマネからのメールにカズミはカップを落としそうになった。

 クラブ・ネイキッドを飛び出したエイコは結局、電車で帰った。その日エイコは人ごみと喧噪に揉まれながら茫然としていた。余震はなかったが、みな帰路へと急ぐなかエイコはただ機械的に身体を動かしていた。やっと来た電車に乗り込み窓ガラスに映った自身を見つめると、エイコは涙を浮かべた。惨めな自分に少しだけ、ほんの少しだけ同情した。それからは変わらず身体だけ動かし、家に着くとくたくたに疲れ果て、そのまま眠った。アマネから何回も連絡があったが、エイコはことごとくそれを無視した。なにをどう説明すればいいのかエイコには分からなかった。もう、ネイキッドには行けないと覚悟したときアマネから電話があった。エイコは最初それも無視をしたが、留守番電話サービスに伝言が残っていた。
「もしもし、エイコ? アマネです。良く聞きなさい。今度の金曜日でネイキッドはなくなるの。とにかく電話して」
 アマネの声に雑踏の音が混じっている。きっと急いで連絡をくれたのだろう。ネイキッドがなくなる? エイコはよく分からなかった。すぐに折り返しの電話をエイコはかけた。
「もしもし、アマネ? ネイキッドなくなるってどういうこと?」
「この前の説明は、なし?」
「ごめん。やっぱりうまく説明できない」
「まあ、いいわ。この前の刃傷沙汰でネイキッドは大きく株を落としたの。それでこの前の地震でしょう。ビルの耐震性が問われて、ネイキッドが取り壊しになるの」
「そう……なんだ」
 エイコは胸を突かれた。ネイキッドがなくなる。自分の足元にあったものがぐらぐらと音を立ててなくなるのをエイコは感じた。
「だから来週の金曜日、クロージングパーティするからエイコも来なさいよ。ネイキッドの最後のパーティなんだから」
「うん」
 アマネが受話器越しにため息をついたのがエイコには聞こえた。
「歯切れが悪いわね。カズミに連絡したときもそんな感じだったけど、本当に大丈夫?」
「会う約束は出来ないけど、必ず行くから」
 アマネのカズミと言う声でエイコの身体は震えた。カズミに会いたい。エイコは自分のしたことを悔やみ、内省して、やっと出た答えだった。
「カズミもそう言ってた。じゃあネイキッドで会いましょう。早く仲直りしちゃってね」
 電話を切るとネイキッドがなくなることが現実味を帯びてきた。ただでさえ危うい四人なのにネイキッドがなくなったら散り散りになってしまうだろう。エイコは顔をあげた。あの地震の日からずっと地面ばかり見てきたような気がする、とエイコは思った。でも。でも、みんなを手放したくない。エイコはだからできるだけの努力はしようと思った。

 突然のクラブ・ネイキッドのクロージングパーティは、皮肉にも、盛況だった。ラウンジのエントランスはネイキッドに入れない人が列をなしていた。ネイキッドは六年ある女性オンリーの箱だ。古参も新参もネットを通じてネイキッドの閉幕を見守るらしい。アルバイトが終わってすぐに駆けつけたエイコもそれにはびっくりした。この人波からカズミを探し出さなければいけないことに焦りを感じていた。
「ねえ、知ってる? ネイキッドの魔法」
 前に並んでいるカップルらしき女の子ふたりの会話がエイコには耳に入ってきた。
「魔法?」
「ネイキッドでは、はぐれても運命の人には出会えるっている魔法」
「それって魔法なの?」
「そう考えたほうがロマンティックじゃない。きっとはぐれても、あーちゃんこと見つけ出せる。私もそんな気がするの」
 確かにロマンティックだとエイコは思った。カズミは私の運命の相手だから絶対に見つけてみせる。ネイキッドの魔法もフルに活用して、なにがなんでも。エイコは前に並ぶカップルを微笑ましく、羨ましく思った。

「なーんでエイコとカズミに会えないかなあ」
「これだけ人がいたら、会えないのも当たり前でしょ」
 アマネはラウンジのバーカウンターのスツールに座りながら毒づいた。グラスは人が多くて間に合わないのか、アマネとヒカリはプラスチックのコップでお酒を飲んでいる。アマネはネイキッドの最後の夜なのだから四人ではしゃぎたかったのだ。
「エイコとカズミが居なくちゃ意味ないのに」
「たまにはふたりっきりにさせてあげれば?」
 ヒカリの意外な言葉にアマネはアイロニカルに笑った。
「人の恋路をさんざん邪魔しておいてなに言っているの?」
「なんのことかな」
 悔しいほどのポーカーフェイスにアマネは歯ぎしりしたい思いだった。
「私はなんでも知っているのよ。ヒカリ、あんたエイコと寝たでしょう?」
 一呼吸おいて、ヒカリは答える。
「そうだよ」
「いたいけな女の子を利用するのはやめなさいってナナにも言われたくせに」
「あの女の言葉に貸す耳はないもんで」
「確かにそうだけど」
 ふたりの間に沈黙が佇む。ヒカリはエイコの苦痛と恍惚で歪んでいる顔が好きだった。好きな人がいるくせに、自分なんかに靡くようなところが、自分に似て、愛おしいと思った。ヒカリは自分自身を愛することはできなかった。けれどエイコを通じて自分をほんの少し愛おしいと感じることができた。ヒカリにとってエイコは鏡だった。ヒカリにはそれが「仲良し四人組」の一人でも罪悪感がなかった。そして「仲良し四人組」のなかで、一番、始末におけない下衆だとヒカリ自身も自覚していた。
「ダンスフロアに行ってくる」
「はいはい」
 アマネは面倒そうに歩くヒカリの背中を見つめた。地震のときの自分の言葉はなかったことにされているのか、と思いながらも、ヒカリにまた会える確信がアマネにはあった。アマネはネイキッドの逸話を思い出していた。
「運命の相手ならネイキッドでは再会できる」
 アマネは鼻歌を歌い出しそうな気分だった。ヒカリのことならなんでも知っている、そういう自負がアマネを心地よくさせた。

 カズミはひとつの賭けをしていた。今日エイコと会えたら、エイコの言葉を、あの叫びを信じようと、そう考えていた。カズミは自分からは決してエイコを探そうとしない。エイコがカズミを見つけ出すことができたらヒカリのことは言及せずに、エイコの言葉を信じてみようと、受け入れてみようと思っていた。地震以降、自分が鈍感であることをカズミは実感せざるをえなかった。エイコの気持ちを考えていなかった。考えるのはいつも自分のことだけで、守ることばかり考えた城にひとりだけいるようなものだった。エイコを想うだけで、カズミは温かな気持ちになっていたことを、忘れていた。最初のキスも、ナナと再会したときも、優しくそばにいたのはエイコだった。カズミの身体はそれでも重かった。エイコとヒカリとのことが分かって、それが重く圧し掛かっているとカズミは感じた。ヒカリとの一件は看過できるものではない。けれど、エイコの言葉を信じる価値はある。このふたつの間で揺れていたカズミの出した答えは、エイコにただ見つけられるのを待つことだった。エイコ、私が欲しいなら、私を見つけて。運命の糸を手繰り寄せて。言葉にならない叫びが——ナナと別れたときもカズミは一回も叫ばなかった——カズミの身体中を駆け巡り、焦燥感を覚えさせた。金曜日の日付けはもう土曜日になって三時間が経つ。カズミは人波に揉まれ疲れた身体をダンスフロアの壁に預けた。
 踊り狂うという表現が適切だろうか、ダンスフロアは熱気に満ちていて体感温度が高かった。エイコは焦っていた。カズミがまだ見つからない。エイコはバーカウンターで水を買うと半分ほど飲み干した。ふと壁に目をやったときだった。エイコはカズミを見つけた。カズミは壁の花になっていたが、カズミを見違えるわけはないと思い、人ごみをかき分けエイコははやる気持ちを抑えて近づいた。
「カズミ!」
「エイコ、久しぶり」 「嫌だ、真っ青じゃない。大丈夫?」
 エイコが驚いたのも無理はない。カズミは近くで見ると顔面蒼白で、立っているのもやっとの様子だった。
「本当に遅かったじゃない、エイコ。本当に……」
 エイコを見つけてほっとしたのか、カズミは咳をすると口元から血が流れた。ああ、血だと認識するとエイコの身体に体重を預けて、そのまま気を失った。カズミにはその後の、エイコの叫び声は聞こえなかった。

 ヒカリは例のスタッフオンリーの小部屋でシャンペンを飲んでいた。今日でクローズされるネイキッドを静かに惜しみたかった。階下のダンスフロアはやけに騒がしいが、午前三時、一番ネイキッドが盛り上がる時間だった。お酒の弾ける音が静かに響き、この空間だけ別世界だった。ヒカリは誰よりもネイキッドを愛していた。その猥雑さ、混迷はまさしく自分の心のうちそのままだと。懐かしむために存在するには、少し汚れてしまっているネイキッド、そしてヒカリ自身。その静けさを破るようにドアが開いた。アマネは堂々と部屋に入り、シャンペンを手に持っていたコップに注いだ。
「なんでここだと分かった?」
 タバコの白い煙を吐き出しながらヒカリはアマネに問うた。
「ヒカリのことならなんでも知っているって言ったでしょう」
「そうか」
「そうだよ」
 ヒカリに隙を与えずにアマネは答えた。シャンペンの甘さにアマネは舌を痺れさせた。アマネはエイコとヒカリが寝ていると知っていたが、不思議なことにショックも受けなかったし驚きもしなかった。ヒカリは臆病なのに破滅的、矛盾していてそれに身を引き裂かれている女だとアマネは思っていた。だからこんな近くにいるアマネには手を出せない。ヒカリは好意を抱いている相手にひどく後ずさる。だからカズミが好きなエイコを抱いて満足していたのだろう。愚かしくて可愛らしい、とアマネはヒカリのことをそう思った。
「火なくしちゃった。貸してくれる?」
 アマネがヒカリに尋ねると、ヒカリはジーパンからライターを出そうとしたが、アマネはこっちと言ってヒカリのタバコの先をアマネの咥えているタバコの先に押しつけた。
「私はアマネのライターじゃない」
「ふふ」
 アマネは疲れた顔をして笑った。ヒカリはいつもアマネの底が知れないと畏怖と好意を抱いていた。好きということは怖いことなのかもしれない、とヒカリは今さらながらに思った。
「私ね、ヒカリが恋で変になると想像するとそれだけで達しそうになる」
 ヒカリの咥えていたタバコから灰が落ちた。アマネには完敗だ。ヒカリはそう思った。そう思わせる人物はアマネを除いては存在しないことを、ヒカリは悟った。もう引き返せない。でも、それでもいい。いっそ清々しくヒカリはそう思えた。そう思えたことが何より幸福なことだとヒカリは思った。
「私もだ」
 ふたりは磁石に引き寄せられるようにグラスもタバコも捨てて抱き合い、くちづけた。シャンペンの泡立つ音がふたりを祝福していた。

 長いキスの後、ふたりは照れを隠せなかった。シャンペンはもう泡立たなかった。それくらい長い間くちづけていたのだと逆に羞恥心を煽った。ヒカリのスマートフォンは二人の羞恥心と沈黙を縫うように震えていた。
「出ないの?」
「出るよ」
 照れ隠しにアマネは言って、ヒカリもまたそれに答えた。ヒカリの頬は上気していたが、電話に受け答えていると眉間に皺が寄った。
「ラスト・ナンバーはアマネとって言いたかったけど。緊急」
「どうしたの?」
「カズミが倒れた」
「え?」
 アマネは事態が飲み込めない。
「今、カズミは病院でエイコが付き添っている」
「タクシーで行きましょう」
 ヒカリはアマネの言葉に頷いた。

 最後のネイキッドの夜は熱狂と興奮で燃え上がった。みな我を忘れて楽しむことだけを考えていた。空が白み夜が終わっていくのをまるでないことのように振舞い、それぞれがお酒を飲んだり踊ったり楽しみながら、ネイキッドの最後をそれぞれのかたちで惜しんだ。朝になれば割れてしまう金魚鉢のそのなかで、みんな精いっぱい息をしていた。


   ……to be continued.


BGM;TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA 美しく燃える森
次回で最終回(?)です


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