CLUB NAKED

#6

 夏休みに入ってエイコは本屋でアルバイトをはじめた。エイコ自身、本は嫌いではなかったし、夏休みを無為に過ごすよりは公務員試験のためダブル・スクールに通う軍資金を貯めるにはちょうど良かった。駅前の本屋は地元の小さなものであるが、犯罪捜査の専門書を結構な量を置いている。中年男性の店長がサスペンスものが好きだから、という理由をバイトの先輩から聞いてエイコは納得した。まだまだレジ打ちくらいしか任せてもらえないが、エイコにとってはこの間のネイキッドでの出来事を忘れさせてくれるには繁盛している本屋だった。
「四百六十七円のお返しになります。ありがとうございました」
 エイコは疲れない程度の笑顔を作り、お客に頭を下げる。今のお客でちょうどレジの流れが途切れたので、エイコは立ちっぱなしで疲れた足首を回した。
「ワタナベさん、レジ交代するから休憩入っちゃって」
「はい」
 先輩が言うのでエイコはスタッフルームに足を向けた。
 スタッフルームには競馬新聞を広げた店長がいた。エイコはお疲れ様です、と声をかけると間延びした返事が戻ってきた。休憩に入るとエイコはどうしても携帯電話を見てしまう。着信メールはない。
「いつでも連絡して、待っているから」
 そうカズミに言ったのは一週間前。それからカズミから音沙汰はなかった。メールの着信音を聞くたび、カズミからではないかと思うが、期待はことごとく裏切られ、無味乾燥したダイレクト・メールばかりだった。アマネにもメールを送った。ネイキッドのことには触れずに、近況報告の当たり障りのないメール。しかしアマネからも返信がなかった。仲良し四人組はもうなくなってしまうのかもしれないとエイコは思い、それも四分の一くらいは自分のせいだと知りながら、歯がゆい想いをしていた。エイコは苛立たしげにキーボタンを押す。カズミにメールを送ろうと思っているのに上手い文章が思い浮かばない。言葉がみつからない。ただ衝動に任せてキーを押しては消しの繰り返しだった。
「きょうびの女子大生はメールを打つのが早いねえ」
 店長は新聞から目を離し、老眼鏡がズレた顔でエイコを見つめた。
「そんなことないですよ」
「コレかい?」
 親指を立たせ店長は脂の下がった顔をする。
「彼氏はいません」
 エイコはそうにべもなく言い捨てると、店長は詰まらなそうな顔をして新聞に目を落とした。
 すべての男が、というわけではないが、男はエイコにとって邪魔な存在だった。初恋の女の子はあの男子中学生に取られてしまったし、初めて戯れにキスをした彼女も恋愛はいいものよ、と逆にエイコを諭した。大学の先輩は結婚するらしい。あ、とエイコは我に返った。先輩がいなかったら、エイコはネイキッドには行ってなかった。

   大学の先輩とはぐれてしまったあと、エイコはダンスフロアでミラーボールを見つめていた。抱き合っているカップルに踊りに夢中になっている女の子たち、そんな人波のなかでエイコはただぽっつり残されていた。チカチカと点滅するミラーボールは宝石のようにきれいで、ビールを片手に壁に寄り添って上ばかり見ていた。そんなときアマネが声をかけてきたのだ。
「友だちを紹介するよ」
 なにせフロアは爆音が広がっていたので、アマネがエイコの耳元でそう言った。エイコは手を引かれるがままフロアを縦断した。今思えば結構、危ないことをしていたのかもしれない、とエイコは思い出す。いくらネイキッドだとは言え、声をかけてくる人が必ずしも善良なわけではない。しかしエイコは幸運だった。エイコは後になぜ声をかけてきたのかとアマネに訊いた。アマネはネイキッドのお導きかな、と茶化して本当のことは言ってくれなかった。アマネからエイコはダンスフロアでヒカリとカズミを紹介された。ヒカリは初対面のときから素っ気なく、関心がなさそうだった。一方、カズミはエイコを新しい友人として温かく迎え入れてくれた。ダンスフロアはうるさいから、と一階のラウンジに三人はエイコを誘った。
「エイコちゃんは学生で、先輩とはぐれちゃったんだって」
 アマネが二人に事情を話すと、カズミは得心がいったように頷いた。
「週末のネイキッドは一度はぐれちゃうと二度と会えないからね」
 カズミは淡い笑みを浮かべて言った。
「ネイキッドっていう迷宮のアリアドネの糸は『運命』だから、恋人じゃないと再会できない」
 ヒカリの声は独り言のようだった。
「先輩ってエイコちゃんの恋人?」
「いえ、先輩が卒業するんで、その記念というか一度、来てみたかったんです」
 カズミとアマネはエイコの話に耳を傾けた。
「でも混んでいるのに、なんでこんなに息がしやすいんでしょうね」
「男がいないからだよ」
 カズミの口調は穏やかだったが、はっきりしていた。そのときカズミはエイコに金魚鉢の話をした。アマネとヒカリは何か喋っているようで、エイコは必然的にカズミと話すことになった。
「みなさんはどういうご関係なんですか?」
「ネイキッド仲間って言うのかな。毎週金曜日に踊りに来ると、不思議とこの三人になるんだよね。それで今は親友」
 これも運命かな、とカズミは笑って言った。ネイキッドは人を結びつける力があるなんて、当時のエイコでは想像できなかった。そして三人のほどよい距離はエイコの緊張と心をほどいた。
「はぐれた先輩って、実は憧れの人だったんですよね。なんか呆れられちゃうと思うけれど、告白すらできなくて」
 エイコはお酒で緩くなった声帯からそんな一言が漏れてしまった。
「なんで告白しなかったの?」
「自信がなかったんです。先輩は性別問わず好かれていたし、そのまま封印しちゃいました」
「エイコちゃん、可愛いのにね。その先輩は惜しいことをしたと思うよ」
 カズミの真摯な言葉でエイコは頬が上気するのを感じ、本気で照れた。照れるところじゃないよ、と優しく頭をぽんぽんと叩かれ、余計、体温が上がるのを感じた。
「いい感じに打ち解けてるみたいね」
「さて、ネイキッドの秘密基地に行きますか」
「どこですか?」
 エイコがアマネに聞くとヒカリは人差し指をくちびるにあてて、
「まだ秘密」
 と言うだけだった。
 バーカウンターを抜けて、ヒカリはバーテンダーに目配せするのを忘れなかった、スタッフ・オンリーと書かれたドアの前に四人は立った。
「私のコネクションに感謝して」
 ヒカリは鍵を取り出して、ドアを開けた。そこは地下のダンスフロアが一望できる部屋だった。
「すごい。こんなに人がいたなんて」
 エイコは感嘆しかなかった。こんななかで先輩をひとり、探し出すのはとうてい不可能だとエイコが思うほどの人の数だった。
「ここはマジックミラーになっているからダンスフロアからは見えないようになっているし、一部のスタッフしか知らない場所なんだ」
 ヒカリは備え付けられた豪奢なソファに座って、たばこの火をつけた。
「どうしてご存じなんですか? こんな場所」
「極秘」
 エイコがヒカリに尋ねるとヒカリはそれしか答えなかった。
 その場所でエイコは仲の良い三人の輪に加わることができたような気がした。それからエイコは毎週金曜日はネイキッドに行くようにした。ネイキッドは追加のドリンクを頼まなければ、良心的なエントランス料金だったし、何より四人で過ごす時間が楽しかった。うたかたの夜を過ごしたあとは二十四時間営業のファストフード店に転がり込んで話を弾ませた。

   ネイキッドは楽しい場所だった。単純に夜を楽しみ、踊り明かす。エイコはまだ何も知らなかった頃の自分が羨ましいと思った。少しずつ薄れ、汚れていく記憶がどうしようもなく懐かしかった。
「戻ります」
 休憩時間を一分残したところでエイコは店内に戻った。
 アルバイトが終わるのは夜十時半だ。ほどよい疲労感がエイコの身体を襲った。何か甘いものを食べたいと思ったエイコは裏口から出て、表に回ってコンビニエンスストアを目指した。
 表に出ると見慣れた姿が視界に入ったことにエイコは気が付いた。まさか、と思ったがカズミだ。視線が絡まるとエイコは駆け出した。
「どうしてここにいるの?」
「アマネから聞いたんだ」
 良かった、とエイコは安堵した。いつもの穏やかなカズミだった。淡いほほ笑みを浮かべるカズミはエイコの知っているカズミだ。
「メールや電話じゃニュアンスが伝わらないと思って、来ちゃった」
 会社帰りだろうか、夜遊びには向かないシンプルな仕事着をカズミは纏っていた。
「公園がすぐそこにあるから、そっち行こうか」
 エイコは胸が高鳴った。こんなにもドキドキするのはカズミだけだ。

 二人は公園のブランコに乗って話をはじめた。
「この間はごめんね。びっくりさせちゃって」
「私は大丈夫だよ」
 エイコは動悸とカズミのスピードで話して欲しいと思って、間を持たせるために温くなったお茶を一口だけ飲んだ。
「ナナはね、気まぐれだから。突然びっくりするような行動を取るんだ。この間のネイキッドみたいに」
 エイコは黙ってうなずいた。
「アマネがナナのことをどう言ったか知らないけれど、ナナは決して悪いやつじゃないんだよ。付き合ってつらい想いもしたけれど、楽しい時間の方が多かった」
「けど、カズミは泣いてたじゃん」
 しまった、とエイコは思った。だけれどもつい口に出てしまった。あんな泣き方されたら、心配するのは当たり前だけれども、言葉が緊張のせいで性急すぎた。
「あれはね」
 ゆっくりとカズミが言葉を紡ぐ。
「あれは、楽しかった時間を思い出して……」
 カズミの声が擦れる。
「なんでダメになっちゃったのか、私、ぜんぜん分からなかった。ナナと一緒の時間を過ごして、同じ気持ちでいるものだとばかり思っていた。だから楽しい時間は私のただの自己満足かなって思えてきちゃって」
 カズミの声からは必死で泣くまいという意志を感じた。
「自己満足なんかじゃ、ないよ」
 エイコはカズミの手を握った。エイコ自身、そんな勇気があるとは思わなかった。
「ナナさんだってカズミと一緒に楽しい時間を過ごしたから、ネイキッドにまた来たんだよ」
 カズミとナナのことはエイコには分からない。エイコは自分の言っていることが客観的に正しいと思えなかったが、カズミを過去の亡霊から護るのは自分の言葉だと、今、実感していた。
「ありがとう」
 カズミは押し殺した声でそう言った。
「今日はこの前のことを謝りに来たのに、逆にエイコに励まされちゃったな」
 できるだけ明るい声でカズミはエイコの顔を見ながら言った。
「お礼を言われるようなことじゃないよ」
 エイコは自分の非力さを知っていた。カズミはエイコの言葉を遮るように言う。
「そんなことないよ。アマネにメールしたら『いちばん心配しているのはエイコなんだから会いに行きなさい』って怒られちゃった」
 エイコはアマネに感謝した。カズミは初めて会ったときのようにエイコの頭をぽんぽんと叩いた。
「とにかく心配かけてごめんね。もう大丈夫だから」
 カズミのいつもの笑みがそこにあった。エイコも安心してそれにつられて笑った。
「また金曜日、ネイキッド行くからエイコも絶対、来てね」
「うん」
 駅前までカズミを見送るとエイコは盛大なため息をついた。
 カズミとナナには絆があって、それは解けてしまった。エイコは嫉妬を覚えないかというと嘘になる。大恋愛をしたカズミを自分に振り向かせることができるのかと自問してみると、エイコには自信がなかった。ただ好きじゃだめなのだ。惚れた相手を振り向かせる努力が、恋愛には必要なのだ。しかもエイコはヒカリと寝ていた。ナナとのことがあったからだろうと、エイコのアプローチにカズミは友情として捉えていたことが、今なら分かる。しかしそんなことを知らなかった。知らなかったでは済まされないこともエイコは知っていた。迂闊だった。肌を合わせることは簡単でも、心を触れ合わせることは難しい。けれど難しいからといって投げ出すことはエイコの自尊心が許さなかった。カズミに恋人になって欲しい。事実をありのままに、包み隠さずカズミに伝えようとエイコは思った。分かってくれないかもしれないし、それで関係が破綻するかもしれない。しかしカズミに対して必要なのは誠実さだとエイコは思った。しかし今は何を言うにも、まだ勇気が足りなかった。


   ……to be continued.

BGM; The orb Once More
夜のほうが書くことがはかどります。特に作品が夜の場合は。


Page Top
inserted by FC2 system