CLUB NAKED

#4

 まだ手が震えている。
 ヒカリは震える手で煙草に火を着けた。喫煙所は病院の外に設置されていて、長い夜は明けて朝日が眩しいので、ヒカリは目を細めた。とりあえず私の夜勤は終わったのだと確認するための一服。そして患者の死をこれからの私の日常に引きずらないための儀式。
「お疲れさん」
 当直明けの医師が声をかけてきたので、ヒカリはお疲れ様です、と返し頭を下げた。あの医師は三時間後にはオペだ。昨夜から今日の未明にかけてICUは多忙だった。患者のひとりが、明日には一般病棟に移る予定だった患者が、急に容態が悪化した。
 生命力というまだ医学では解明されていないものがあるとすれば、あの患者は「もういい。じゅうぶんだ」ということだったのだろうか。ヒカリは死というものがいまだによく分からなかった。看護師として死を何度も見てきた。心肺の停止、瞳孔の拡散、死の三徴候。それは知識としてある。ただ、死は瞬間ではない。時間の連なりで人は死を死として受け止める。看護師のヒカリは死の徴候でしか死を受け止めたことがない。ただの作業として死を日常化する。ヒカリはもう慣れたものだと思っている。ではなぜ手が震えるのだろうか。生命反応としてヒカリは死から離れたがっている、と感じた。こういうときはひと眠りして誰かを抱くに限る。生命のぬくもりに餓えているのだ。ぬくもりに触れることができるということはなんという歓びであろうか。でもそれを分かち合うのは他人でなければならない。スマートフォンをポケットから取り出して短いメールを打つ。アマネにではなく、エイコに。気に入った玩具は遊び倒さなければ意味がない。相変わらず性根が悪いなとヒカリは思うが、エイコもヒカリのことを玩具として扱っている。エイコが来なかったら別の相手と寝ればいい。不思議なイーブンの関係。恋愛ではこうはいかない。恋愛は二人の間では平等なんて誰が言ったのだろうか。そして情のない相手のひと肌が持つ絶対的な威力。ヒカリはそれに魅入られていた。「無関心の肌」とも言うべきそれはヒカリを存分に甘やかす。誰が好き好んで苦しい道に行くものか、とヒカリは思った。ヒカリはまだ恋に落ちていない。ヒカリは煙草を消すと病院内に姿を消した。
 エイコは忙しなくシャープペンシルを動かしていた。この科目が終われば、晴れて夏休みが謳歌できるということで、気は急くが、慎重にペンを解答用紙に走らせていた。幸いテキストとノートが持ち込み可の講義だったので、講義の具体的な内容を付け加えながらエイコの独自の考察を書くように努めていた。解答用紙が裏面にいっても時間内でそのことを繰り返していると、九十分はあっという間に過ぎた。チャイムの音でペンを置くとエイコは大きく伸びをした。これでやっと夏休みが迎えられると思うとエイコの身体から力が抜けた。
「エイコ! どうだった? テストの出来は」
 経済学科は女が少ない。声をかけてきたのは、その少ないながらも悪友である、ミワだった。
「なんとか、すべての問題を解くことができたよ」
「エイコが休んだ分のノートを貸したの、誰だっけなあ」
 悪戯っぽく笑うミワにエイコは多くの借りがある。
「生協で好きなアイス、選んでいいよ」
 やった! と無邪気に喜ぶミワを見て、エイコも少し、嬉しくなった。
「エイコは夏休みどうするの?」
 ミワがカップ入りの高い抹茶アイスを美味しそうに食べながら、エイコに尋ねた。
「うーん、バイトかなあ。そろそろ予備校の準備しないといけないし」
「味気ないな。海に行くとか旅行するとかないの?」
「そういうミワはタカヤマ君と旅行するわけだ」
「へへっ。いいだろう! 北海道に行くんだ」
 はいはい、羨ましいですよ、とエイコは言った。経済学科の男女比率は九対一で、ミワは見事に学科一のイケメンのタカヤマ君の心をゲットしたのだった。
「エイコはラヴなひと、いないの?」
 棒アイスをシャリっと音をたててエイコは噛んだ。エイコはミワにカムアウトしていない。それはミワに偏見があるわけではなく、ただエイコがレズビアンであることを言い出せないでいるからだ。ヘテロはいちいち自分のセクシュアリティを異性愛者だと言わない。エイコもそれに則って自分のセクシュアリティを言わない。それでエイコが窮屈な思いをしているわけではなかった。
「私には恋ってよく分かんない。……なんか苦しい想いばっかだし」
 思わずエイコは本音を漏らしてしまった。
「なんだ、いるじゃん。恋って多少なりとも苦しいものじゃない?」
「そうだけど」
 エイコは言葉に詰まった。絡まった毛糸のようにエイコの心情は複雑だ。
「まあ、何事も公開のないようにね。夏なんだし」
「夏って、季節が関係あるの?」
「誰もが夏に恋するからね」
「サンプルはタカヤマ君だけじゃない?」
「うるさいなあ」
 エイコはミワを茶化しながら言ったが、去年の夏、エイコはカズミに恋をしたのだから、あながちジンクスでもないかもしれない、と思った。しかし苦しいばかりだと言ったときヒカリとカズミどちらを頭に浮かべたかエイコは忘れてしまった。エイコは携帯電話のメールを見て心がかき乱される感覚を覚えた。やめなきゃ、やめなきゃ。でもヒカリのあの妙に冷たい肌に吸い寄せられるように、たった二文字、OKとエイコは送った。
 身体を弄ばれる快楽を知ったら、エイコはもう病みつきだった。ヒカリはエイコの身体をいつの間にか知り尽くしていた。容易に身体は他人に預けられるものではないけれど、ヒカリの愛撫には説得力があった。身体が求めることとそれに応える器官が備わっていることを教えてくれた。初めて抱き合ったとき、身体というのは説得力があるのだと、エイコは知った。ヒカリはエイコに身体の使い方を教えた。それはごみを一切、出さない料理の仕方を教えてもらったようだった。身体のあらゆる部分を余すことなく使い、触れ合う。エイコはそんな抱き合い方を知らなかった。身体がこんなにも自由で、敏感で、他人を受け入れるように出来ているとは知らなかった。それをヒカリが全部、教えたのだ。エイコはヒカリと抱き合っているとネイキッドにいるときと同じ多幸感による現実浮遊を感じた。裸のままを受け入れられ、それが悦びに繋がると知った。エイコにとって自分の裸姿は新しい遊び道具となった。そこに拒絶はないのだから、何も怖がることはない。カズミへの恋慕の気持ちは背徳という一種のスパイスになってエイコの身体を駆け抜ける。罪悪感さえ喰らってしまう貪欲さに、エイコは驚いた。欲望はエイコのあらゆる臓器と器官と感情を飲み込みそれでも飽食に陥らないという事実。エイコは自分の欲望が少しだけ怖くなったが、自在に身体を弄ばれる感覚を忘れられず、大学でミワと別れた後、ネイキッドに立ち寄った。
 九時にネイキッド、ヒカリからのメールの文章はそれだけだった。しかしエイコはヒカリの言葉は十分すぎるほどだった。ダンスフロアにエイコが降りて、DJブースの近くを探せばヒカリは壁に凭れてビールを飲んでいるのが分かった。エイコは足早に歩を進めて、ヒカリに近寄ると、ヒカリは何も言わず、手を広げる。四人の中で一番、背が高いヒカリと低いエイコは凹凸がぴったり嵌るように抱き合って、音楽のせいか二人の身体は揺れた。充足感でエイコの心と身体は満たされる。ヒカリは相変わらず無言だったが、ヒカリの身体は雄弁だった。二人は見つめあい、ゆっくりと口づけを始めた。メインディッシュの前の前菜がようやっと二人の前に置かれたのだ。二人は無言だけれども、雄弁に、前菜に手をつけた。夏の夜はまだ始まったばかりだ。エイコとヒカリは無邪気な子どものようにお互いの身体を貪った。


   ……to be continued.

BGM;夏に恋する女たち Taeko Oonuki
生と性をめぐるヒカリとエイコの情事。重い内容だったけれどBGMはあえて大貫さんで。


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